読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

時事図解

時事問題を中心に気になることを図解しています。図解依頼募集中!

戦前の市場制度~中央卸売市場法の成立前後~

前回の更新では、卸という商行為の基本的な役割を確認しました。

zukaiseiri.hatenablog.com

今回の記事は、より具体的に中央卸売市場がどのような役に立っているかを解説します。

日本の中央卸売市場は独特のもの

実は日本の中央卸売市場制度は世界でも珍しく、同様の制度は韓国と台湾にしかないそうです。どちらもかつて日本が統治していた国です。その特色は市場内の卸売業者に対する拘束の強さです。

卸売市場では、主に集荷を担当する卸売業者(一次卸)と、この卸売業者から購入し、小売などに向けて再販売をする仲卸(二次卸)とがあるのですが、日本の中央卸売市場ではこの卸売業者に対する締め付けが大変に厳しいものになっています。具体的に言うと、原則的に卸売業者は法律で定められた手数料でしか商品を売ってはいけないことになっており、自由に値付けができないのです。

なぜこれほど卸売業者に対して拘束力が厳しいのか、そしてそれは何のために行われているのか。それを理解するには、卸売市場法の前身にあたる戦前の中央卸売市場法の成立前後の事情を知る必要があります。

 中央卸売市場誕生のきっかけは都市の発達

公設の卸売市場を作ろうという議論は、明治時代の後期から一部の有識者の間で行われておりました。まずは「都市市民に食品を効率よく行き渡らせよう」という社会運動家、「都市の衛生のために市場を管理したい」と考える内務省、「無駄の多い取引を統制したい」と思う農商務省など、様々な意見を出していました。

 日露戦争後の好景気によりインフレが発生すると、市場問題はさらに深刻になっていきました。インフレにより物価が上昇し続けるのですが、庶民の給与はそれほど上がらず、食料の値段が庶民の家計に重くのしかかるようになったのです。

一方で日本は近代工業化の途上にあり、引き続き都市には人が集まり続けます。食料生産に携わらない都市市民のために食料品を供給することが行政にとって急務となりました。

当時の流通機構はまだ未熟でこれらの需要に応えることができませんでした。

米騒動がおきる

その象徴的な事件が1918年に起きた米騒動です。インフレが発生する中、シベリア出兵が発表されて米相場が一気に急上昇します。相場の上昇を見た各地の米問屋は米の買い占めや売り渋りをし、主食である米が庶民に行き渡らなくなってしまいました。そして富山県の魚津で女性たちが役場に集まり窮状を訴えたことを新聞が報じると、全国でも同様の騒ぎが発生し一大事件となりました。これが1918年の米騒動です。

この事件をきっかけに、公設市場への議論は一気に前進します。1923年に<中央卸売市場法>が成立し、27年に京都市を皮切りに日本各地に中央卸売市場が誕生しました。

中央卸売場法の成立により何が変わったのか。

最初にお断りしておくと、ここからの解説はかなり時間のスケールを大きく取ったものであることをご了承下さい。なぜかと言えば流通というものは実業だからです。流通の内容を一日でがらっと変えることは不可能です。また地域差もあります。

 ただし中央卸売市場法の成立の前後で、日本の都市の生鮮食料品流通は明らかに変わりました。その大枠は「問屋市場」から「中央卸売市場」への変化といえます。

f:id:zukaiseiri:20170205012058p:plain

問屋市場とは

明治から大正時代にかけての生鮮食料品の流通の主役は、問屋と呼ばれる現代で言うところの卸売業者たちでした。彼らが各地の生産者と結びつき、東京や大阪といった都市圏に生鮮食料品を供給する役割を担っていました。

しかしこの問屋市場流通には様々な問題がありました。そこで行政がこれら問屋を「統制・組織化」しようとしたのが中央卸売市場法の趣旨なのです。

問屋市場流通は何が問題だったのでしょう?

◆主に統制面での問題

・不合理な取引

まず何よりも問題視されたのは、問屋の不合理な取引形態でした。

問屋にとって最も重要な作業は、多者に先駆けて商品を集めてくること(荷引き)です。そのためには、生産者に賄賂を渡したり(袖の下取引)、生産にかかる費用をあらかじめ貸したり(前貸し金)、生産者を回って盆暮れの挨拶をする業務(山歩き)があったりと、とにかく不合理な金銭や物品のやりとりが多々ありました。

これらにかかる費用は商品代金に上乗せされてしまいます。ただでさえインフレが進む中、このような不要コストは誰からも問題視されていました。

・差益本位の取引

このようにコストを掛けて商品を集めている以上、問屋が利益を生むには、できるだけ「安く買って高く売る」ことが重要になります。たとえ生産者であっても物を知らない田舎者が売りに来れば不当に値切ったり、あるいは新参者の小売業者には高くふっかけたりと、不公平な取引がまかり通っていました。

このような行為は、社会全体から見れば価格を不当に歪めて効率的な流通の阻害要因でしかありません。それゆえ公正で公平な取引が望まれていたのです。

◆主に組織面での問題

・私設市場の限界

現在の言葉で言うならば私企業である問屋が用意する市場ですので、資金面には自ずと限界があり施設は劣悪でした。市場の敷地はただでさえ狭く、そこに少しでも多くの商品を並べようとするため大変に不潔でした。人一人が通るのがやっとだったという報告もあります。

中央卸売市場法が施行される以前はこのような市場が乱立していたのです。前回に紹介した「取引最小化の原理」からすれば無駄の多い流通と言えました。

・経営と取引の未分離

問屋市場は、一つの問屋で営まれることもあれば、複数の問屋が組合を作って営まれるものもありました。施設ですから使用する際にはルールを定めなくてはなりません。ところが経営している本体が施設の運営をしていると、儲けのためにこの組織内の内規を平然と無視するようになります。

現代でも、たとえば築地市場では本来割り当てられた区画以上に通路にはみ出して冷蔵庫や生け簀を置いて営業している仲卸がたくさんおります。

経営と取引が分離してあっても長い年月を経ると決まりが守られなくなってしまうわけで、経営と取引の主体が一緒であれば、内規の空文化は急速に進行してしまうのです。

 中央卸売市場法はこれらの問題をどう対処したのか。

主に統制面での改善

・取引方法を合理化した。

中央卸売市場法の中心とも言うべき規定の一つがこれです。公平・公正な取引になるように取引方法をあらかじめ定めてしまったのです。

まずは委託販売原則と言って、生産者から商品を預かって代理に販売するのが卸(問屋)の仕事となりました。これにより買掛金や、過剰な荷引き競争、生産者差別が発生しなくなり、どんな生産者でも商品を卸売市場で販売することができるようになりました。特にこの法律では不正に対する処罰などは定められては居ないのですが、公設市場の中で、行政に監視されている中で不正をすることはほぼ不可能なのでわざわざ法律で定めることはしなかったようです。

また販売方式もセリ売りが原則とされました。卸と仲卸の相対取引では、その商品が幾らで売買されたのかが外からは分かりません。衆目の中でセリが行われ、落札金額が公表されるようになると、仲卸が再販売するときに不当に高い値段を釣り上げて販売することもできません。また生産者も自分の作物が幾らで売れたのかが分かるようになります。

場内現物取引の原則も定められました。卸売市場では商品はかならず実物を見ての取引となります。先に売買だけ成立させ、あとになって商品を渡される方式だと、必ずしも値段に見合った商品が渡されるとは限りません。また問屋流通のときは売掛が取引の主流でしたが、売掛では資金の回収ができない場合もあり、基本的に現金での即時決済が行われるようになりました。

・手数料制

以上のように中央卸売市場法では透明性の高い、公正・公平な取引方法が定められましたが、さらに卸には販売に対する手数料を法令によって固定するという施策が取られました。これだけ取引内容が透明化し、さらにもらえる手数料が一定となると卸が不正を働く旨味はまったくなくなってしまいました。

ただし手数料が固定化されるということは収入の安定という利点もあります。手数料性は、ある面では取引に絶大な支配力を持つ問屋への懐柔策だったのではと私は考えています。

 ・主に組織の改善

・公設市場制

私設の市場では資本力の関係で、設備を十分に整えることができません。特に当時は都市の発展のさなかであり、効率的な市場が必要でした。

中央卸売市場を作ろうという議論の中で公設か私設かは意見の別れる問題でしたが、最終的に中央卸売場は公設とすることが定まります。公設することにより大きな資金を投入することができ、設備の整った清潔な市場を作ることが可能になるためです。

また公設市場の利点はその信用力にもあります。

行政の作った市場だからこそ、公正、公平に品物を扱ってくれるだろう、新参者でもきちんと取引してもらえるだろうという信用が担保され、多くの人々を集めることができます。人々が集まれば集まるほど、流通の効率は高まり商品の価格を安定させることができるのです。

・一地区一市場制

さらに強力な市場統制がこの一地区一市場制です。つまり一つの地域に公設の市場一つ以外の市場の建設を認めないという方針です。法律の中にも他の市場の閉鎖を命じる権限が盛り込まれるなど、現代でしたら独占禁止法と矛盾する内容です。

これは明らかな民業圧迫ですが、「取引最小化の原理」を働かせるなら、これは正しい方法です。

こちらも様々な議論があったようですが、当時、すでに一地区一市場状態だった地方市場の方が売上が安定していることが実例として上げられ、最終的にはこの方針が定まりました。

もっとも重要な点はそれまでの問屋を内包したということ

中央卸売市場法の成立により、それまで流通を支配していた問屋は自前の市場を閉めなくてはいけなくなりました。先程も指摘した通りこれは明らかな民業圧迫です。

それに対する補償の代わり用意されたのが新たな市場参入への優先権でした。

中央卸売市場法の運用では、問屋が行政の補償を受けずに自らの市場を閉めた場合に限り、流通販路を独占する市場への参入に優先権を与えるようにしたのです。

問屋は経営の自由を手放すことになりますが、代わりに安定した経営を手に入れることができるようになります。これは大きなメリットです。

改革に反対するのは決まって既得権益者です。この既得権益者の機能を認め、新しい組織に内包するという発想は、公平という観点では問題がありますが、現実的な政策としては有用でしょう。

また当時からすでに問屋には零細な問屋と巨大な問屋の二分化が起きていたのですが、このうち零細な問屋は常に資金繰りが厳しく不安定な経営をしていました。このような零細な問屋は自社の権利を新しくできる卸会社の株に変え、新たにできる卸売会社の一員として吸収されたり、株の権利だけを持ちつつ仲卸になったりしました。

この法律には零細な問屋に対する救済策という一面もあり、柔軟な法律運用がなさたと言えるのではないでしょうか。 

中央卸売市場法の評価

f:id:zukaiseiri:20170205012058p:plain

中央卸売市場法は、市場を協力に統制し、特に流通の要である卸を組織化し管理するという、自由経済に反するような法律です。しかし法律や政策は結果がこそが重要だと私は考えます。

この中央卸売市場法はその後、戦中戦後の統制経済でいったん無効化されますが、その精神は後の卸売市場法に多くの面で受け継がれています。

この中央卸売市場がないアメリカなどでは、生産者も小売業者も統廃合を繰り返し、巨大企業として社会に大きな影響力を与えるようになっています。このような流通もある意味では合理的なのかもしれません。しかし社会の豊かさとは何かと考えたとき、選択肢の多さという評価方法を取れば、アメリカの流通は豊かとは言い難いです。またアメリカ経済の競争の激しさ、Winner-take-all(勝者総取り方式)というようなやり方が日本人の気質に合うのかといえば私は疑問を覚えます。

中央卸売市場法はそう言った意味で日本人の気質に合った法律だったのではないかと私は考えます。

中央卸売市場法のもっとも重要な点

中央卸売市場という仕組みは、大正から昭和初期の日本の近代化、都市化という時代の流れが必要としたものでした。都市の膨張に対し、生鮮食品をどう流通させるかという課題に対して当時の人々が真摯に取り組み、様々な折衝を経て生まれたものです。

特記しておきたいことは、この法律は一部の知的エリートが頭のなかで生み出したのではなく、様々な人々が流通の実態をつぶさに観察し、インフレや都市の膨張といった当時の社会問題に真正面から取り組み、意見を戦わせて成立したものだということです。

その流通の仕組みは戦後も生き残り、日本の発展に少なからぬ貢献をしました。この法律の持つ構想が正しかったことが歴史によって証明されたのです。

むろん、この仕組みが今後の「人口が減り続ける日本」においても有用かどうかは議論すべきでしょう。しかし今まで日本の流通を支えてきてくれたこの仕組みの意味や成立の背景を知らずに単に卸売市場廃止論を唱えるのは、安易にすぎると言わざるを得ません。

中央卸売市場法は、当時の社会問題に対しての流通のグランドデザインだったのです。