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えっ、公園の保育園転用はエゴじゃないの!? 図解で分かる杉並区の保育園転用問題で反対派が無視された理由(2)

境治氏のいう「久我山の保育園反対運動は違う」とは何が違うのか

事の発端は、悪意あるテレビのニュース報道でした。

 

保育園の建設を訴える赤ん坊を抱いた若い女性に対し「趣旨が違う」という怒声が浴びせかけられる映像が流れました。久我山東原公園の保育園転用に対する2回目の説明会の様子がテレビで報道されたのです。

これを見た人は「待機児童を抱えたかわいそうな母親とそれに無理解な老人」という分かりやすい図式を思い描いたと思います。事実、保育園建設反対派の住民に対して、ネットでは非難轟轟というありさまでした。

それに対して、境治氏は6月6日の記事の中で

 だが、5月の末から話題になっている杉並区の公園転用問題は違うものを感じた。反対するのは自然なことではないか。久我山東原公園の説明会がテレビでも報道され、賛否両論巻き起こっている。中には反対運動を住民エゴと見る声も見受けられるが、そう決めつけるわけにはいかない気がした。

 と、反対派住民の事情とこの問題の特殊性を伝えました。

ちなみにこの記事のタイトルは「杉並区の保育園問題。公園転用への反対は住民のエゴではない。」です。それではエゴではないとしたら、一体何なのでしょうか。

まずはここから確認してみたいと思います。

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一般の保育園反対運動

一般的な保育園の建設反対運動とはどのようなものなのかを、境氏はそれまでの取材経験の中から解説しています。

それによると、まずは"更地や使われていない施設など"空いている場所"があり、そこに保育園が建設されると知った地域住民が静かな環境をもとめて反対運動を起こすのが一般的な反対運動のようです。

反対の理由の多くは「子供の声がうるさい」「交通事情が悪くなる」といった誤解や偏見であり、そのことから境氏は反対運動に「強い疑問を感じている」と否定的な立場をとっています。

久我山東原公園は何が違う?

その反対運動否定派の境氏が久我山には違うものを感じ取ったことが記事に書かれています。

それは久我山東原公園は「すでに人びとが使っている場所」であり、特に久我山東原公園は22年前に住民の要望で作られ、住民の手で愛し育んできた場所だというのがその理由です。

もちろん公園に愛着があるのは理解できるます。

ですが公園と保育園では、やはり保育園の方が優先されるべきではないでしょうか。

なぜ、境氏や地域住民はここまで公園を重要視するのでしょう?

 

公園には「ゆるやかなコミュニティを形成する」という役割があるからだと境氏は言います。つまり公園を失うことがコミュニティ消失につながる重大事だから反対するというわけです。 

 

ここで、ちょっと話を脇道に逸らします。

コミュニティというのはなんとも曖昧な言葉です。筆者は前回の記事で反対派の根拠が曖昧だと書きましたが、その由来はこの言葉のためです。

 

この話題を図解するとき、何とか別の言葉に置き換えられないかと苦心しましましたが、結局よい言葉が見つかりませんでした。そんなとき、あるブログで「都市において公園とは消防署や病院のように地域になくてはならないインフラ」という表現を目にし、境氏の記事と合わせてようやく理解できた気がしました。

 

地縁血縁の少ない都会では、隣に住む人間の顔すら知らないということが当たり前に起こりえます。特に地方から移住してきた人間ともなれば本当に顔見知りは誰もいません。

しかし、そんな都市の中で唯一、誰もが利用できる場所が公園です。ここでお互いがなんとなく顔を合わせていることで「ご近所さん」としてのつながりが生まれます。

特に親子連れなどは、赤の他人だった子供同士が仲良くなり、そこから親同士の交流も生まれていくなどという様子は容易に想像ができます。

 

子供がある程度大きくなり、一人遊びをするようになったときも、もし地域にコミュニティがなければ、親は子供を外で遊ばせることができなくなるでしょう。

その点、常に見知った顔のいる公園なら、子供を一人で遊ばせても心配はありません。公園には子供の友達がおり、どこかの親子連れがおり、ママ友がおり、足を休めている老人がいます。常に誰かが見守ってくれています。これが境氏のいう「ゆるやかなコミュニティ」の正体なのではないでしょうか。

 

公園の価値は子供だけに限った話ではありません。

境氏の奥様も初めての育児で参っていたところを公園で出会ったママ友との交流で救われたそうです。おそらく都市に住むすべての人にとって公園とはこの「ゆるやかなコミュニティ」に参加するための常に開かれたドアとなり得るのではないでしょうか。

 

公園は都市においては消防署や病院のようなインフラなのだという言葉はけっして大げさではないことが分かります。消防署や病院が無くなってしまうといざというときに支障をきたすのと同様に、公園も都市生活を送るうえでは欠かせない施設なのです。

 

ところが、ここに「すぎなみ待機児童緊急事態宣言」が発表されます。

来年4月に待機児童ゼロにするという目標が掲げられ、そのためには公園の転用しかないという方針が発表されました。

そのリストの中には久我山東原公園もあったのです。

確かに保育園は必要です。しかし久我原東山公園が無くなってしまうと、周囲には同じ機能を果たせるような公園はありません。それゆえこれは住民にとってはコミュニティが消滅してしまうかもしれない一大事だと住民は感じたのだと思います。

 

 反対運動が起きるのも当然のことだったのです。

消防署を潰して保育園を建てるようとする人はいません。消防署はおそらく日本どこでも重要な施設だからです。

しかし公園は地域によって扱いに差があります。ただ空き地にしておくのはもったいないからという理由でできた公園もあります。

ですが、久我山東原公園はそうではないようです。コミュニティの受け皿となる地域に必須のインフラだった、だから守りたい。

 

久我山東原公園の保育園建設反対運動は単なるエゴではなく「地域コミュニティを守るための運動」なのだ。境氏の記事から私はそう解釈したのです。

 

次回に続きます。